私のプロフィールをご紹介します

 

 

生まれ育ちは京都市山科区です

 1968年(昭和43年)3月26日に、父:譲(ゆずる)母:綾子(あやこ)の次男として生まれました。

 体重は3400kだったかな?とにもかくにも安産だったようです。 

やさしかったお婆ちゃんと…
やさしかったお婆ちゃんと…

藤枝とのつながり

 生まれは京都ですが、母親の実家が藤枝の高洲です。国鉄に勤務していた父親が新幹線工事のために藤枝に赴任した際に母親と知り合ったのがキッカケだったそうです。

 転勤族だった父親が京都にいた時に私が産まれました。 そういうわけで小学校6年生までは京都にいました。生まれ育ちは、藤枝と言うよりも京都ですね。今だって、京都弁でしゃべることもできますよ。

 小学生時代の夏休みの楽しみ。それは藤枝に遊びに来ることです。当時駄菓子屋をやっていた母の実家で、やさしかったお爺ちゃんお婆ちゃんや従妹たちとなかよく遊んだのが年少期の夏休みの一番の思い出です。

 そのおばあちゃんもおじいちゃんも、だいぶ前に亡くなっています。

兄と私、後ろに母。北陸線敦賀駅にて海水浴の帰りに
兄と私、後ろに母。北陸線敦賀駅にて海水浴の帰りに

勝気な兄貴と弱気な私…

 私には4歳年上の兄がいます。兄はケンカも強くて頭も抜群に切れる、一方の私はケンカは大嫌い(というか出来ない)趣味と言えば当時ブームだったブルートレイン(寝台列車)の写真をとって友達と見せ合いっこする…そんな内気で軟弱な子でした。

 兄をうらやましいと思ったこともたびたびありました。その後兄はエリートコースを進み、今は海外をまたにかけて仕事をこなしています。でも、両親はそんな兄を見習えとは一言も言いませんでした。

 父親にはよく山登りに連れて行ってもらいました。父は山が好きで息子にも好きになってもらいたいと思っていたようですが、残念ながら自分には合いませんでした。これも性格でしょうか。

 今は高洲に住んでいるのは私の家族だけで、両親も兄の家族も横浜にいます。一年に一度ですが正月に家族そろって団らんしています。

中学~高校~大学と…

 京都から千葉に転校、中学高校大学と千葉で過ごしました。この時期は、正直「滅茶苦茶」でしたね^^親の言うことは聞かないし、平気で授業はサボるしで。

 今思えば、将来自分は何をやりたいか、それがわからなくて様々な問題行動を起こしていたのかな?と思います(甘いですが)

 友達と遊んでいるのが最高に楽しい毎日で、親には心配かけっぱなしだと思います。

 でも受験しなければいけないし、どうしようかな?と思ったのですが、みんな大体経済学部や商学部を志望していて、それと同じじゃ面白くない、それじゃ文学部にしようかと、ちょっぴり興味ある歴史にしようかと思い国学院大学の史学科に入学しました。受験勉強は一生懸命したのですが、志望理由は極めて消極的です。

 

大学よりバイト生活に…

 そんな理由で入った大学ですから、最初からサボり気味。本当にふざけた若者でした。

 そんな中で、牛丼屋でバイトを始めました。

 働けば働くほどお金がもらえる労働の世界を知ります。24時間営業だから深夜ほど時給はいい。自ずと学業よりバイト重視になり、当時はバブル期でバイトと言えども待遇はよくて、週5回深夜勤務して月給で30万くらいになりました。こうなると学校に行くのがばからしくなります。バイトの仲間もたくさんいましたしね。そっちの方が全然面白い。

 今こう書いていても”汗顔の至り”なのですが、若かったのですね。勉強なんてしてる奴らよりも、働く人の方が偉い といった単純な理由から大学を辞めてしまいました。同時に家も出てアパート暮らしになりました。親は「お前の好きなようにやれ」程度でしたが、その単純な言葉がかえって身に染みました。

 当時のバイト仲間とは今でも付き合っています。

 

アルペンルートの黒部ダムにて
アルペンルートの黒部ダムにて

静岡の旅行会社へ就職… 25歳の時でした

 そんな時、たまたま本屋を覗いていると「旅行業務取扱主任者資格を取ろう」という本が目に入りました。小さい時から旅行に興味があった私は、趣味が資格に行かされるっていいなと思いその本を取り勉強し、初年度で国内主任者・次年度で海外主任者資格をとりそれが縁で静岡市の旅行会社に就職、現在の高洲に住むことになりました。25歳の時です。

インドネシア、バリ島にて
インドネシア、バリ島にて

 

 しかし、旅行業と言う仕事は資格云々ではなくて、実際は営業職です。しかも、一日中お客さんと接するので、ことさら気を使います。それだけでヘトヘトになるし、朝も早いし夜も遅い。

 添乗員と言うとあこがれの職業のように見られますが、紅葉やお花見シーズンは連日ツアーなので夜の11時に帰ってきて、翌朝は3時半おきなんてこともちょくちょくあり、とても花形職業といえるものではありません。

稚内 間宮林蔵像前にて
稚内 間宮林蔵像前にて

 

 それでも、行く先々の名所は見れるし旅館について宴会が終わればゆっくり温泉につかることもできます。

 バスの運転手との対話も楽しかったですね。トラック上がりでハンドルを握っているような、はっきりいって”しゃべるのも怖い”人が多い。宿によってはドライバーと同じ部屋に泊まることもあるんですよ。でも実際話してみると外見と違って心優しいドライバーが多く、お互い話をする中で、いろんな人生を積んでいる人が多いな~と、学ぶこともたくさんありました。

 退職してからは縁遠くなってしまいましたが、藤枝駅で早朝宣伝している時などにそうしたドライバーが運転する観光バスと会う機会がたまにあります。お互い懐かしい間柄、朝の時間でゆっくり話することが出来ませんが「今度飲みに行くぞ~」「藤枝の親類にお前の事頼んどいてやるからな!」と言ってくれたりしてくれます。

 

日本共産党との出会い

 出会いと言うよりも知るキッカケというべきでしょうか。大学を辞めてバイトばかりしていたときに、たまたま本屋を覗いていると(本屋ばかり言っていたわけではありませんが…)「中国の旅」(本多勝一著)と言う本が目にとまりました。タイトルから見てただの紀行文かと思い、旅行好きの私は早速購入して読み始めました。

 ところがそこに書かれていたのは、旧日本軍が日中戦争の際に中国各地で行った残虐行為の数々を生存者の証言として集積したルポルタージュです。その行為があまりにも残虐でとてもショックを受けました。 

 日本兵が中国の若い婦人を、その婦人の子供がいる目の前で強姦し、そして(親子とも)殺す光景。村の真ん中の広場に全住民を集めて機銃掃射。生き残っている人間には銃剣で刺殺する光景。日本兵に殺された母親の死体に泣き叫びながら抱きついて離れない乳児をどうすることもできずその場を立ち去るまだ幼い乳児の兄。

 現代の日本社会で考えられないような残虐な行為が、「中国の旅」やそれに続く「南京への道」「天皇の軍隊」(いずれも本多勝一著・編)には書かれています。しかも、加害者としての証言集として出版された「三光」には、虐殺した日本兵の証言としてこうした光景が赤裸々に記されています。

 戦争と言えば、広島長崎の原爆などで日本は被害を受けたとしか認識がなかった私は、それ以上に加害者であったことを具体的に知り、そしてその当時から拷問により若い命を落としながら決して反戦平和の旗を降ろさなかった党が日本共産党であったことを知りました。

 

勧められて入党へ…

 そうした事実を知ったのが25歳の時でしたが、入党するという事までは考えていませんで仕事に明け暮れる毎日。でも共産党の言っていることをもう少し知りたいという思いから、赤旗日曜版を購読。それが縁で党の方と交流し、お世話になる事も多くある中で「出来る範囲でいいから、一緒に活動してみないか?党員といっても医者も弁護士もいるし、労働者の人も仕事を優先して活動している」と入党を誘われその場で入党を決意。39歳の時でした。

 

いかに学ぶことが多かったか…

 入党後は、支部の会議や学習会に参加するわけですが、党員として知っていて当たり前のことが、一般には知られていな事を認識しました。例えば、日米安保条約。沖縄が異常なまでの基地負担を負わされているのは知っていましたが、日本が「こんな条約は嫌だ」と言えば破棄できる権利があるという事。多くに人は知らないんじゃないでしょうか?

 また、党が必ずしも資本主義を否定するものではないこと、共産党は金持ちだといわれているけれど、収入のほとんどを機関紙収入によっており、それは国民主権に基づく政党政治では健全なものであり、他党は政党助成金や企業献金によっていること、など具体的に学びました。

 戦争を二度と起こしたくない、中国の旅を見て痛切に感じた事。しかし、この国はいまだにあの戦争を美化し、再び戦争を起こそうとする勢力があり、それは決して少数ではない事。なども学びました。しんぶん赤旗をよく読む、党員の役割としての一つに掲げられていますが、議員になった今でも情報源は主に赤旗新聞です。党員になってどれほど学ぶことが多かったかを思い知ります。 

 

 

南紀、鬼が城にて。長男優1歳の時
南紀、鬼が城にて。長男優1歳の時

家族

 家族は、妻(直美)長男(優)長女(渥音)の4人家族です。他に、迷い込んできたオカメインコ1匹。

 家では、自由主義と言うか、ほとんど干渉しないというか。お互いにやりたいようにやるといった家庭です。

産まれたばかりの渥音と優
産まれたばかりの渥音と優

 二人の子供は、偶然にも誕生日が7月7日で同じ。長男優は2002年、長女渥音は2007年に産まれました。二人とも藤枝市立病院で産まれました。長男は安産だったのですが、長女は出産時鼻から羊水をすってしまい呼吸できない状態で産まれましたが、すぐに小児科の先生が蘇生してくれて、元気に育っています。その先生は、今でも勤務されており感謝の気持ちで一杯です。

 優の出生届を出しに行った際の、市民課の職員の人も「私も7月7日生まれです」と言ってくれた事が印象に残っています。多分今でも市役所に勤務していると思いますが、移動も多いし職員数も800人近くいるの誰だかわからなくなってしまいました。

市議候補に…やれることは、とにかく街宣!

 そんな中でいただいた市議候補の話。さすがに迷いましたが、共産党の仕事をしたいという思いは常にあったので引き受けることにしました。引き受けること=会社を辞めること になるのですが、女房は「別にいいんじゃないの?」程度でした。

 とはいっても、私は生まれ育ちは京都だし、藤枝に親戚もわずかしかいません。しかも、今選挙で定数が27から22に削減されるという厳しい状況でどうすれば勝ち抜けるか。とにかく声で訴えるしかないと考え街頭宣伝で自分を売り込もうと思いました。選挙戦を通じ、通算で約800回の街宣を行いました。

 今でも、この街頭宣伝は週に1回は行うよう心がけています。ほとんどが誰も聞いてくれていない状況でしゃべっているだけですが、たまに「頑張れ~」とか声援があるとすごく勇気づけられます。

 

大石信生議員と勝利を分かち合い(2010年4月18日未明)
大石信生議員と勝利を分かち合い(2010年4月18日未明)

無我夢中で突っ走り、当選!

 選挙なんて初めてだったので、訳もわかりませんでしたが党員や後援会の方、それに多くの声援を送ってくださった有権者の方の声に支えられるがままに自分なりに一生懸命努力した結果、無事に当選することが出来ました。終わってみればあっと言う間でした。と、同時に託された思いに対して応えければいけないという重圧も感じるようになりました。

 

週2回藤枝駅で朝宣伝してます
週2回藤枝駅で朝宣伝してます

市議の仕事は?

 市民の声を聞くことと、議会の議論を市民にお知らせする事

 慣れない環境の激変で戸惑うこともおおくありましたが、大石議員や党員の方のアドバイスもいただきながら、2年間無事に過ごしてきました。

 そういう中で、なんとなくですがわかってきたこと。常に市民目線を忘れないという事が大事ではないかと思い出しました。

 議会の中の世界は、はっきり言って市民とは無縁の世界で、そういう世界の中にばかりいては市民にとって縁遠い議員になってしまいます。

 私は、その中でも常に市民の声を聴く「年間3000軒訪問する」という具体的な目標を掲げて、多くの市民の声を聴いていきたいと思っています。

 と、同時に議会毎に、どういう議論があったかを報告することも大事だと思います。2320人もの方が私に投票をしてくれた思いを常に忘れず、これからも奮闘していきたいと思います。

 

趣味・特技など

 オペラ鑑賞:(カッコつけてるわけではないのですが、20歳の事から何故か好きなんです)ヴェルディ・プッチーニ・ドニゼッティなどイタリア系が主です。

 水泳:1500m(25mプールを30往復)を”休みなく”泳ぎ切れます。調子いい時は2000mも可。

 資格:総合旅行業務取扱主任者  英検2級

 (ツアコン時にとった資格、今では役に立っていません^^)

                                  2011.5月 記